どうしてこうなった。
目の前に積み上がる皿、皿、たまに丼。次々重なっていく食器の山をカイは呆然と眺めていた。青椒肉絲に始まり四川麻婆、胡麻担々、青菜の炒めたの、何かの肉の塊が載っていた皿が次々と空になっては積まれてゆく。途中から、配膳されたメニューの確認より消費のスピードが早くなったので料理の詳細は不明だ。
「唔該要呢個!」
もちろんこれらの料理はカイが平らげたものではない。人でごった返す屋台街の一角、長椅子の左隣に腰掛け今まさに追加注文をかけているこの猛獣、もとい金李の仕業である。日がほとんど沈んだ青い夜の中、裸電球に照らされるその横顔は紅潮し、たいそう機嫌が良さそうだ。喰う寝る闘うで顔が違いすぎるこの虎は、にこにこしながら小籠包を飲み込んだ後、にこにこと肉まんっぽいものに手を伸ばしている。レイの前はおかわりの品でスペースが無いので、隣のカイの所に空いた皿の山が作られる。ちなみにカイの手元には、甘く炒めた肉とほうれん草がぶっかけられた丼ものが、まだ半分以上残っている。
この屋台街は、昼にいた廃マンションから三kmほど南西に下った市街地の外れにある。日中は閑散としているが、日が橙色になる頃に一斉に屋台が集まり、仕事帰りで空きっ腹を抱えた地元民を迎え入れているようだ。と、ベグった(beeygle:ベーグル。Web検索エンジン最大手)ら唯一ヒットした十年前のバッグパッカーのブログに書いてあった。それ以外、めぼしい情報がさっぱり出てこない。
周りをよく見れば、屋台の明かりでぼんやり照らされた壁は張り紙と落書きだらけ。食べ物の匂いで塗りつぶしきれない生臭さが仄かに漂い、多湿で煙や埃のまとわりつくような空間はお世辞にも綺麗とは言えない。客のがなり声(カイにはそう聞こえる)と、調理の油のと、スピーカーから流れる謎のロックンロールが大合唱し耳もまったく休まらない。観光都市の中にあって観光客がおよそ寄りつかない穴場、言い換えれば治安の宜しくない区域で今、カイとレイは並んで飯を食っていた。
カイの匙が止まっているのに気づき、レイがとても深刻そうなトーンで声を掛ける。
「カイ……おまえ少食だな?」
「貴様が食い過ぎなんだ昔からっ!この状況でよくそんなに食えるな」
「そこに飯があるからな」
「はあ……」
カイにはまったく理解できない超ゼツ理論に反論する気力も湧かない。疲れ切っているのだ、色々と。アスリートとして最低限のカロリーとタンパク質は摂取しなければ、と思ってはいるもののどうにも手が動かない。というか胃がキリキリと痛む気すらする。
「どうしてこうなった……?」
何度目かになるため息を漏らしながら、カイは数時間前の大勝負の後を思い返していた。
「だから、貴様はドランザーとドライガーが同時に止まった音を聞いたのだろう!?だったら引き分けだ!」
「いいや。最近のルールではバーストフィニッシュさせた方に二ポイントだろう」
「それを言うなら三ポイント先取制のはずだ。俺も貴様もまだポイントを満たしていない!」
「ここでこれ以上バトルはできないだろう。今回はおまえに勝ちをやると言っているのに、強情なやつだ」
「貴様からバースト一回とったくらいで勝ちを名乗れるか!」
「なんだと!」
「何だ!!」
人をしてレアと言わしめるカイとレイの大一番は、ドランザーがスピンアウト、ドライガーがバーストするという結果を迎えていた。カイからは判別できなかったが、五感に優れるレイが言うのだから疑う余地は無い。
しかし問題は、そのタイミングがまったく同時だったということだ。
これは引き分けか、否か。
カイは同時に戦闘不能になったのだから引き分けだと主張した。レイはそれを受けて、珍しく見せていた笑顔を引っ込めカイの勝ちだと突っ返した。
意見が分かれた二人。精も根も尽き果て地面に座り込んだまま、山より高いブレーダーのプライドを賭けて熱い議論を交わし始めたのであった。
正直、このままでは炎天下で共倒れか、爆発騒ぎで通報を受けた警察に連行されるオチが目に見えている。だがしかし、互いに正しいと思う結果を頑として譲らない。おまけに、主張しているのは自分の白星では無いときている。この場に観客やブレーダーDJがいたら、どんな反応をされたことだろうか。
すっからかんの体力で、口だけは勇ましくああ言えばこう言うの応酬を続けている。傍目から見たら子どもの喧嘩だ。しかしブレーダーというのは実にやっかいな生き物で、[[rb:誇りある闘い > プライド]]に人生を賭けているのだからこればっかりは譲れないのである。
と言いつつも、審判のいない非公式試合。どこかで線引きをせねば収拾がつかない。
先に大人の態度を見せたのはカイであった。
「……わかった!約束通り、貴様の抱えこんでる事情を全部話せ。その代わり、こちらも大人しく空港に向かってやる。だが、勝敗そのものは次回に持ち越し。それでいいな?」
「…………」
「こら、牙をしまえ。今は一刻も早くこの場を離れるべきだろう」
「…………」
「返事」
「……わかった」
当然納得していないだろうが、レイも落とし所は合意したらしい。大きく息を吐いてからゆっくり立ち上がると、ドライガーのパーツを回収して組み立て直し、服の裾できれいに拭ってから懐にしまいこんでいた。そして解けた長い髪を頭上で結び直すころには、平素の澄んだ表情に戻っていた。一度そうと決めたら、すっぱりと頭を切り替えられるのがレイの長所であると、カイは密かに評価している。
(そういえば、髪型がいつもと違うな……)
レイは出会ってからこのかた、襟足のところで一本に結び、更に布で覆うヘアスタイルを通していたはずだ。一年ぶりに会った今日は、ポニーテールにした髪を、風に靡かせるままにしている。
「……なにを見てるんだ」
くしくしと手ぐしで整えていたレイが、カイの視線に気づいてさっと髪の尾を背後に隠す。まるで着替えでも見られたかのような反応にカイの方が一瞬気まずさを覚えるが、何も悪いことはしていないので流すことにした。実際、そんな些事に構っている場合ではない。
スマートフォンで現在地を確認すると、ここはレストランのあったシーサイドから内陸に進んだ、初めて見る名前の土地だった。付近にはランドマークとなるものが何も無い。しかし、地名の表示を見て、カイはここが汪の所有の土地であると気づいた。ランチの際、雑談として聞かされていたのを思い出したのだ。
カイはちらと周囲を見回した。元より荒れ果てていた廃マンションの中庭だったが、今や地面に大穴が開き、街灯もベンチも粉砕されて怪獣でも大暴れしたかのような有様になっていた。実際似たようなものだし、ベイバトルをしたのだからまあ当然ではあるが、地主のことを思うと心が痛まないでもなかったのだ。先ほどまでは。さいあく土地ごと買収することまで検討していたのだ。先ほどまでは。
「よし、放っておこう」
「なにか言ったか、カイ」
「気にするな」
この土地が商売に使えるようになるまでさぞ苦労するだろうが、お望みの聖獣のエネルギーの威力を存分に味わっていただけるわけだ。泣いて喜べ、蛇野郎。
さて、汪の元から脱走したカイとレイには、十中八九追っ手が差し向けられているだろう。それでなくとも、官僚に身内がいる汪は警察とも深く繋がっている可能性が高い。追っ手に見つかっても、通報されても詰みである。
カイもドランザーを拾い上げ、ハンカチで拭ってポケットにしまう。地面に放り出された鞄と、ジャケットも回収する。すっかり土まみれになり、とてもジャケットを着直す気にはなれなかったので肩にひっかける。
「とにかく、急いでここを離れなくては。タクシーでも捕まえて空港に出るぞ」
「カイ。ひとつ確認したいんだが」
「何だ?」
「パスポート、ちゃんと持っているか?」
「おい、子どもじゃないんだぞ……」
いざ出立というところで腰を折られたのに些か苛立ち「何を当たり前のことを」などと答えようとしたカイだったが、レイのいたって真面目な表情を見て足を止めた。
カイは海外出張の際に、腰回りにごく薄いナイロンのポーチを身につけている。その中にパスポートを携帯して常に身につけるようにしているのだ。今はちょうどスラックスの尻ポケットの上あたりに回しているので、手を沿わせて確認してみる。と。
「………………」
そこにあるべき堅い感触が無かった。チャックを開けて指をそっと差し入れてみる。やはり、無い。
三十度はある気温の中、冷たい汗が一気にカイの背を流れ落ちる。
「そこに入っているのか?」
「え、」
ずぼっ。
いつの間にか背後に立っていたレイが無遠慮にポーチに手を突っ込んできた。
「○▲×■※◎!?」
思わず喉の奥であられも無い声が上がりそうになるが、気合いで飲み込んだ火渡の箱入り御曹司である。
「きっきききき貴様どこに手を」
「ないな、パスポート。たぶん汪がスったんだ。あいつ、歩き方がおもての人間じゃなさそうだったから」
「いいから、し、」
「し?」
「……っ臀部から手をどけろこのデリカシー皆無野郎!!!!」
「でんぶ?」
尻(の上)に手を置いたまま淡々と説明されても何も頭に入ってこない。しかし、おかげでカイのパスポートが手元に無いという事実だけは、しっかり確定してしまった。
(大使館に行くにしても、汪のオフィスのすぐ傍だ……近寄る訳にはいかない。どうする……!)
カイはレイを一歩離れさせたところでステイをかけ、取り急ぎスマートフォンで火渡本社にメッセージを打った。内容は……どこから伝えるのが最善か、判別がつかなかったため端的に止めた。汪と、ビジネス上決裂しかけたこと。一旦日本に帰国したいがパスポートを紛失したこと。関係機関には頼れないこと。
ごく限られた、信用できるスタッフたちに宛てて送信した。しかし、突拍子もないこの事態にどこまで動けるか。とりあえずカイの出国が第一目標だが、いくら火渡といえど、パスポートも本人の身柄も無しで国際事情に融通は利かせられない。特に、この国では。
カイは、すぐに有効な手が思いつかないでいた。あの蛇野郎は、なんとしてもこの香港、自らの懐から獲物を逃がす気は無いらしいのだ。
再度訪れた、緊迫の場面。
その時。
ぐるるるるるる、うるるるるる。
ネコ科の動物が喉を鳴らすような音が立て続けに響いた。
「カイ」
「……何だ。いや、言わなくていい」
「腹がへった」
「……ああ、うん。そうだろうな……」
戦闘中の鬼気迫る雰囲気はどこへやら。音の大元は、腹に手を当ててしおしおとしなびているレイであった。
「カイ。人間、まずは飯だ。少し走れば食えるところもあるだろう」
「街に入る気か?人混みに紛れて汪の追っ手があるかもしれんぞ」
「まあ、とりあえずついてこい。腹になにか入れれば新しい考えもうかぶ」
「単純に飯が食いたいだけじゃないか……」
「おれの話はそこでしてやる。それとも、もう体力が尽きたか?また抱いていってやろうか」
「誰がっ!!」
またもや売り言葉に買い言葉。ひとまず離れなければならないのは事実だし、敢えてのせられてやったんだ。と、カイは自らに言い聞かせ、疲労困憊の身体を引きずり二人並んで駆け出した。
なお、「少し走る」の距離感が牙族基準であることに気づいたのは、一時間後のことである。
そうして日の暮れる頃、どことも分からない超ローカルスポットに足を踏み入れ、レイに引っ張られるまま屋台に腰を下ろすに至ったのであった。
「唔該!我要杯生啤!!」
「好!」
早口の広東語でカイの回想は中断された。カイの右隣に地元の親父がどっかりと腰をかけてきて、店主にビールを注文したのだ。でかい身振りで肘があたる。おまけにカイよりも大分幅をとるくせに、詰めろとばかりに汗臭い体を押しつけてくる。ただでさえ気温の下がらない熱帯夜でこの状況、溜まりきった疲れとストレスに拍車がかかり、カイはいよいよ色んなものの緒がぶち切れそうになった。
「カイ」
沸点を超えるかというまさにその寸前、カイの腰にレイの手がすっと回された。そのまま左の、レイのもとへずるっと身を引き寄せられる。カイのシャツの左腕に、レイの麻の服の右肩がぎゅっとくっつく。
「ほら」
ご丁寧に、食べかけだった丼も手元に寄せてくれる。そしてレイは何事も無かったかのように、二人ぴったりの距離のまま飯の続きを再開した。
「……レイ、暑いんだが」
「今さらだろ」
「……近いんだが」
「今さらだろ」
ぼそりぼそりと零すカイに、良いから少しでも食っておけ、と返してレイは会話を切り上げた。デザートの杏仁豆腐に取りかかるらしい。
食の進まないカイを心配してか、隣で苛つかられるのが面倒に感じたからか。ともすればカイ以上にパーソナルスペースの広い男が、わざわざこの近さに他人を引き入れた真意はわからない。
わからないが、ジョッキ片手に歌い始めた知らない隣の男たちよりも、米一粒落とさず食事をするこっち虎の方がずっとましだったので、カイはそのままゆっくりと匙を持ち上げた。
カイは、レイがこんなに静かに食事をとる人間だったことを、今日初めて知った。先に食べ終わった後は、膝に手を置いて行儀良く待っていることも。立ち食いもするし気がつけば間食してばかりだが、素行が良い。そういえば、こうして並んで食事をとることなど、初めてだったことにと気づく。
十年来、本当にスタジアムの上の顔しか知らなかったのだ。
これから聞くレイの話は、そういうことをしっかりと踏まえて聞かなければならない。油の多い肉と野菜を何とか胃に流し込みながら、カイはそう、強く思った。