こと、ビジネスの場において「あり得ない」と断じることはナンセンスだと自戒しているカイも、この出逢いには混乱を隠し切れずにいた。それだけ、カイの中でBBAは、とりわけレイは、ブレーダーとしてではない顔で見(まみ)えることの無い存在だったのだ。
「レイお前、何故こんなところに居る」
「火渡代表。金君ですが、しばらく私の下で働いてもらうことになったのですよ」
そうですね、『白虎』の金君?と話しかける汪に、レイは目線すら遣らなかった。ただただ口を引き結んでカイを見つめるばかりで、何一つ言葉を返さない。だが汪は機嫌を損ねることもなく話を続ける。
「勿論、当の新事業に協力してもらうためです」
「何だと?おいレイ、内容を知っているのか」
「まあまあ落ち着いて」
汪はトントントン、と長い指でテーブルを叩いた。その音でようやっとカイは汪に意識を向けた。
「勿論、金君は事業内容を把握していますよ。その上で、私の下に来てくれることになったのです」
「なら尚のこと、あり得ない話だ!」
確かに、カイはレイと言葉を交わすことは少ない。だがこれだけは断言できる。聖獣を宿す者として、今回の要求を呑むことなど断じて無い。それに――汪が執拗に繰り返す「私の下に」という言葉。あの金李が、誰かに頭を垂れることなど、決して!
迷い無く言い切ったカイに、レイは変わらず黙ったままだったが、その瞳を瞬かせていた。
一方の汪は、微笑を張り付かせたままカイに語りかけた。
「金君とじっくりお話し合いをさせてもらった結果ですよ」
「あんたには聞いていない」
「お話し合い」に含まれる不穏なニュアンスを感じ取れないカイでは無い。いよいよ長くない気の導火線に火がついたカイだったが、またもや図ったかのようにノック音で意気を挫かれた。メイン・ディッシュのリクエストを聞きに給仕がやって来たのだ。
「火渡代表、話の続きは料理を味わいながらにしましょう。鶏?それとも豚か牛の獣にしましょうか……」
口ではそう言いながら、汪は勝手に全員分のメニューを決めて給仕を下がらせた。更には、遠回しにマナー違反を示唆し、勢いに任せ立ち上がりっぱなしだったカイに椅子へ掛けるよう勧める。レイはそのまま汪の側に立っていた。
「さて火渡代表。金君もいることですし、このまま新事業への協力をお願いできませんか?」
「断わる」
間髪入れず返答したカイに、汪は片眉を上げたがすぐに平常の顔を取り戻す。
「――そうですか」
蛇の目が鋭利な三日月型に歪んでいく。カイは知っている。これは、次に切るカードを選んでいるプレイヤーの目つきであると。
「ところで火渡代表。御社の次の事業の行政コンペですが、私の義兄が担当官を拝命しておりましてね……ああ!あとは、来期目処で開発に噛んでらっしゃる一帯、先般より私どもの所有でして、加えて……」
開示された手札はどれもこれも火渡の社外秘事項に関わるものだった。
「我が国における事業は、御社の売上の数十%を占める見込みなのでしょう?……宜しいのですか?」
目の前の蛇は、火渡という企業そのものを人質にとると、そう言っているのだ。
これにはカイも奥歯を噛み締めた。ここまで外堀を埋めてくるのか、この男は!
そして今日この日が、いかに綿密に仕組まれたものだったか、更には汪の謎の執念の深さを、形をもって突きつけられたのである。
現状、カイには即座にオープンできる切り札が無かった。テーブルの下で拳を握るカイに、目の前の男が笑みを深める気配が届く。
部屋には今日初めての静寂が訪れた。そこに、芳しい香りとともにメイン・ディッシュが呑気に運ばれてくる。
状況が動いたのはこの時だった。
「あっ!」
給仕が蹴躓き、肉にたっぷりとかけられたソースが跳ねた。床にわずかに散ったばかりの量ではあったが、それが汪のジャケットに染みを残したようなのである。カイからはよく見えなかったが、汪が気にする程度には飛沫が掛かったらしい。顔面蒼白でとっさに拭おうとした給仕を制し、わざわざジャケットを替えてくると言い出した。やはりこのレストランは汪の私有で、着替えを常備しているあたりに神経質さの度合いが伺える。
「少しの間、どうぞお二人水入らずで」と言い残して汪は一時退席した。入れ替わりで、給仕ではないスタッフがさり気なくドア手前に配備された。見張り役だろう。
(そのような事をせずとも、正直八方塞がりなんだがな……)
一瞬、白磁の大皿に視線を落としたカイだったが、俯いている場合ではないと顔を上げた。すると、円卓を挟んで向かいに居たはずのレイが忽然と消えていた。
否、音も無くカイのすぐ脇に佇んでいたのだ。逆光と長い髪が作る影の中、瞳孔の細い瞳がぎらりとこちらを見下ろしている。これには流石のカイも思わず椅子を鳴らした。
「レ……」
「なんでここにきた、火渡カイ」
久しぶりに会って開口一番がこれである。それも獣が唸るように喋るレイに、理由無く責められている気がしてカイもつい言い返す。
「こちらの台詞だ!レイお前、あの男のところで働くという意味を分かっているのか」
「いいから日本に帰れ」
「そっちこそ早く村に帰れ!」
「それはできない」
きっぱりとレイは答えた。
「おれは帰れない。おまえは帰れ」
レイはそれしか言わず、じっと黙ったままカイの目を見つめるばかりだ。自分の事情を今ここで話す気は無いらしい。
(この場から離れるのが得策なことぐらい、分かっているさ。そうすれば少なくとも、朱雀を渡すことにはならない)
だが今のカイは実質、軟禁状態だ。火渡の中国事業を盾に脅されている上、ここは汪の懐の内。物理的にも脱出しようが無い。
そして、このレイだ。カイがこの場を離れたとして、残されたレイと白虎はどうなる?
(これが汪の狙いだ。わざわざ俺とレイを引き合わせたのは、互いを人質として立てるためだろう。時間を置けば、火渡は事業面の対策を必ず打つ。だからこの場に引き留めて、いま決着をつけたいんだ、あの男は)
間もなく汪が戻ってくる頃合いだが、打開策が思い浮かばない。空調の効いた室内にいながら、カイの額にうっすらと汗が滲む。
「……イ、火渡カイ!」
高機動の頭を更に倍速で回転させていたカイは、レイが一歩間合いを詰めていたことに遅れて気づいた。
「何だ……おい近いぞ」
「これ持ってろ」
ポンとカイの膝の上に投げて寄越されたのは、室内の荷物置きに預けてあったカイ自身の鞄だった。入り口に待機していた汪のスタッフが驚きの声を漏らすのが聞こえる。いつの間に?
レイはそんな余所の人間のことなど歯牙にもかけず、すっとカイに顔を近づけ言った。
「しっかりつかまってろよ」
「は?」
顔が近づいたのは、座っているカイに対してレイが屈んだからだ。そのままカイの背中と膝裏に腕が伸ばされる。瞬間、カイの足は床から浮いていた。
「え?」
レイは自分より長身のカイを軽々と抱え上げ、つかつかと窓辺に歩いて行く。あまりの急展開に火渡エンタープライズ代表取締役社長CEOは小鳥か少女かという細い声を上げることしかできず、その腕の中で完全にフリーズしていた。
この部屋には色ガラスを組み合わせた美しい窓が並んでいる。その殆どは外倒し窓で、サイズこそ大きいが隙間程度しか開放できない仕組みだ。レイはその窓の前で静止した。そして半身を引き――片足で思い切り窓枠を蹴り飛ばした。
バガンッ!!という凄まじい破壊音とともに、窓はいともたやすく右外へ全開になった。開放を制限していたアームも内鍵も、見事にひしゃげて鉄くずに成り下がっている。レイは構わず、そのまま窓枠に足を掛けた。
我に返ってしまったカイの白い顔から、音を立てて血の気が引いてゆく。
「あ」
そしてレイは、太陽が燦然と輝く空へ、迷うこと無くその身を投げ出したのである。勿論、腕の中にカイを抱えたまま。
「はああああぁぁぁぁあああぁぁあ!?」
人生で初めて出したかもしれないカイの叫び声は、光と影の交差する香港の街へあっという間に吸い込まれていったのだった。