調光された室内から一歩飛び出した世界は、目を灼くほど眩しかった。雲が途切れ灼熱の太陽が顔を出し、建造物のひしめく香港の街を強く照らし出す。並み居る高層ビルの窓ガラス、ひっきりなしに往来する車、そして二つの島を渡る海。眼前に広がる香港の全てが、夏の陽光を受けて煌めいていた。
カイはこの美しいパノラマ・ビューに一瞬目を奪われ息を呑んだ。そしてすっぽり頭から抜け落ちていた。現実逃避してしまったのかもしれない。自分たちが今、地上四階の高さから飛び降りたというその事実に。
落下とともに胃の浮く感覚がせり上げ、カイは片腕で鞄を、もう片方を思わずレイの背に回したが、レイは特に驚くこともなく冷静に真下を見据えていた。まず下の階の土壁でできた庇に両脚で着地し、勢いそのまま斜め下方の非常階段のふちに飛び移り……外壁の僅かな突起という突起をしなやかに飛び移り、難なくレストランの暗い路地裏に着地したのだ。男一人を横抱きにしたまま。
さすがに二人分の体重が地に降り立った衝撃は大きかった。ズン、という音と砂埃が舞い上がり、流石にレイにも負担が掛かっただろうと思われた。だがこの逞しい虎は、何も無かったかのようにそのままスタスタと駆け出したのだった。
(こいつ人間離れしすぎじゃないか!?)
カイはうっかりまた叫びそうになるが、慣れない大声に喉が嗄れてしまい音にならなかった。身動きしようものなら抱え直されるので抵抗もできない。親虎に運ばれる仔虎よろしくされるがままになるしかなかった。
香港はコントラストの激しい街だ。華やかで近代的な商業施設が盛んに建てられるその裏には、あるいはすぐ横にも、伝統的な――整備されないまま放置されている暗い路地がぴたりと張り付いている。そしてそのような処はあらゆる物の吹き溜りになるのが常である。
そんな路地裏にあってもレイは、配管から漏れっぱなしの水溜をかわし、壁の落書きに使われたペンキの缶を器用に飛び越えてゆく。その間も絶えず辺りの様子を伺っているのがカイからは見てとれた。
奇跡的に誰の目にもつかなかった。というより、レイが人気の無いところを選んで進んできたのだろう。そこそこ高い塀を二ステップで飛び越えると、お世辞にも綺麗とは言えないコンクリート建ての集合住宅らしきところで立ち止まった。どうやら廃墟になって久しいようだが、東アジア独特の格子門には鍵が掛かっていた。まあそんなものも、レイがハイキックで景気よく吹き飛ばしていたが。
どこの部屋にも入らず、中庭まで進んだ。そこは剪定を放っておかれた木々が多い茂っていたが拓けており、陽光が差しこんでいた。そこまで来て初めて、レイはふぅ、と息を吐いた。呼吸を整えながら、隙間を縫ってそよぐ風に目を細めている。
「ん、んんっ」
たぶん確実に、腕の中の存在を忘れているようなのでカイは咳払いをしてみせた。
まさかこの歳で誰かに抱きかかえられるなど思ってもいなかった。世界の火渡を背負う男が誰かの腕の中で密着しているこのあられも無い状況、親にも祖父にも絶対見せられない。
ジェットコースターのような展開で感じる暇も無かった羞恥の二文字が一気にせり上げてくる。顔が熱い。夏の陽気に加え、レイの体温が高いせいだ。そういえばレイと接触したことなんて初めてでは?自分以上に、絡まれるのが死ぬほど嫌いなこいつが自ら近寄ってくるという状況がそもそも可笑しい。木ノ宮やマックスでもこんなに近いことは無かった。あと心なしか花の香りがするような……いやいやそんな馬鹿な……。
頭の回転が速い故に混乱を極めていくカイの脳内だったが、態度はあくまで悠然としたものを貫いていた。これはイレギュラーな事態なのだ。このまま何事も無かったかのように下ろされればそれで終いである。
カイがもう一度咳払いをすると、ようやく、はっとしたようにレイが顔を向けた。
「おまえ、意外とかるいな?」
「どうでも良いから早く下ろせこの馬鹿猫……!!」
カイの自尊心は、チームいちマイペースな男にはまったく察されずに終了した。
無事地に足をつけたカイは、ようやっと落ち着いてレイの様子を観察することができた。帯を締めていない濃紺の衣装、高い位置で結わえっぱなしの髪。平素の、スタジアムに立つレイとはまったく違う印象の出で立ちだった。己よりもやや低い位置にある、意思を貫き通さんとする強い眼差しだけが変わらない。ジャケットの裾を整えて、カイは正面からレイと向かい合った。
「……で、レイ。あの場から飛び出してどうするつもりなんだ」
「おまえを日本に帰す。この国を出れば、おまえなら何とかなるだろう」
「それで貴様は残ると?」
「そうだ」
「汪に何をされるかもわからん。貴様も来い」
「おれは行けない」
「先ほどからそればかりだな。何故だ」
そこでレイは一瞬目を伏せた。しかしやはり、口を開く様子はなかった。
カイは強い口調で問い詰めた。
「まさか、本当に自ら進んで汪に協力しようというのでは無いだろうな?みすみすと白虎を渡すのか、レイ!」
「そんなわけあるか!!」
敢えて挑発的に振る舞ったカイの言葉に、レイは牙を剥いて吠えた。
「白虎とはなれるなど、誰が望んで……!」
何があろうと鋼のように揺らがない男が、苦しみに喘ぐように声を絞り出している。カイはそれに驚くことは無かった。何故なら、その痛切な叫び心の底から理解できるからだ。聖獣と己は表裏一体。あの例えようもない強く美しい輝きが降りてきた瞬間から、もう決して、分かたれることなど考えられないからだ。聖獣を寄越せという言葉、それは心臓をもぎ取って差し出せと言うことと同義だからだ。
だがその慟哭を聞いてなおカイに押し寄せていたのは、同情ではなく、苛立ちだった。あの金李が、何か得体の知れないちからの前に屈しようとしている?自由で、超然としていて、人間の理の埒外で生きているような男が?スタジアムの上ですらない場所で、そこら辺の藪から急に這い出てきた蛇みたいな奴に?全てを掛けて闘う好敵手たちでもない――俺以外の奴なんかに?
カイにはレイの考えていることなど昔からさっぱり分からない。これから先も馬が合う気はこれっぽっちもしない。だがその心のありようは、きっと似ている。それだけは、ぶつかり合った遠いあの日に確信していたことだった。
だからそういう奴に一番効く方法を、カイはよく知っているのだ。
「レイ」
「……なんだ」
カイはジャケットの内ポケットから取り出した、青く輝くレイヤーを突きつけた。
「俺と勝負しろ」
「…………は?」
ぽかんと口を開けるレイに、カイは少し得意げな気持ちになって鼻を鳴らした。振り回されっぱなしの火渡カイではないのだ。
ジャケットを脱いで朽ちたベンチに放り投げ、シャツの第二ボタンまで外す。
「俺が勝ったら洗いざらい話してもらうからな」
「なにを勝手な……!」
「ブレーダーは強さが全て!特に俺たちの間には、それしか関係ない。そうだろう、レイ!」
レイは長い睫毛をしぱしぱと瞬かせていたが、その手は自然と懐に伸びていた。服の上から魂の形(ドライガー)をなぞるように指が滑る。
「構えろ、金李。まさか断わるとは言わないよな?」
刃を交えれば何もかもが伝わる。性格も、抱える思いも、未来の希望も過去の絶望も。それらがスタジアムの上では強さと呼ばれるものであり、魂そのものだ。自己の証明(バトル)を断わるブレーダーは存在しない。闘いに己の全てを出し切るからこそ、ブレーダーと呼ばれるのだ。
「万が一貴様が勝った場合は、大人しく日本に帰ってやるさ――まあ、喰うか寝るかしかしてないやつに、負ける気はしないがな?」
「!」
その台詞に、レイが反応を示した。
「……ふ」
レイは一瞬、笑っていたようにカイは感じた。
しかし直後にその瞳孔は鋭く細まり、穏やかな庭園の空気が一変した。蝉の声がぴたりと止んで、世界が静まりかえる。発せられた覇気が風に乗って届き、カイの背中を粟立たせた。
来た。眠れる虎がいまようやっと起きたのだ。
「この勝負のってやる、火渡カイ」
ランチャーに白銀のドライガーがセットされる。カイは下段寄りにドランザーを構えていたが、敢えてレイと同じ高さのフォームに切り替えた。
「俺は強いぞ、レイ」
「おれの方が強い!――カイ、勝負だ!!」
掛け声とともに、火の鳥と猛虎の一騎打ちが今、香港の廃墟で人知れず幕を開けたのだった。